山田詠美 『明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち』
山田詠美さんの本を読むのは初めてだ。
彼女の名前は華々しいデビューの頃からもちろん知っている。
作品のタイトルもいくつかあげられるくらいだ。
当時、10代の後半だった僕は猛烈に本を読んでいた。
でも、彼女の本は僕にとってのリアリティの外にある世界だと感じ、手に取ってみることはなかった。
そのうち仕事に就いて忙しい日々に追われ始めると、彼女の小説だけでなく、本全般をほとんど読まなくなった。
読みたい本と出会っては、読み始めてみるのだが、最後まで読み切る根気が無くなっていた、という方が正確かもしれない。
読み終える本が年に数冊というペースが何年も続いた。
時代が巡って、インターネットにアクセスするようになって、僕は書くことの方に時間を割き始めた。
猛烈に本を読んでいた10代の頃、僕は日記とも言えない雑文をノートに書きなぐることも毎夜続けていたが、それは誰に見せるものでもなかった。
ところがネットでは自分の書いたものを読んでる人がいるらしい。
読んだ人から反応が有るというのは画期的だった。
時間の経過とともに、mixi、Twitter、Facebook、ブログ、と書く場所と書くスタイルを変えながら、毎日のように何かを書くようになった。
僕には伝えたい事が有って、それを発信するために書いているつもりだった。
ところが、この数ヶ月、何度も何度も同じことを書いている気がしてきた。
伝えたい事が、伝えたい人に伝わっている気がしなくなった。
そのうちほとんど書けなくなった。
伝えたい事が無くなったわけではない。
何か新しいスタイルで、別のアプローチの表現をしなければ、もう僕の思うようには伝わらないと今は感じている。
それがどういうやり方なのか、まだ模索中だ。
一直線には進めない。
ネジのようにぐるぐる螺旋を描きながら、僕は進んでいく。
もがく時間の中でこの頃はかなり本を読んでいる。
買ったまま開かなかった本、人が勧めてくれた本、随分前に読んだことのある本、などなど次々と読んでいる。
ネットを開く時間を減らしたことで、活字を読む力が戻ってきた。
これはいいことだと思う。
SNSの世界は開かれているようでいて、実は限られた仲間内で同調しあっているぬるま湯の中だという見方もできる。
僕はぬるま湯の外へ向けて発信すべきだし、そのために外の世界を見ることに、より多くの時間を割くべきだ。
10代の頃のように、図書館にもしばしば出入りするようになった。
『明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち』は名護の図書館でつい先日見つけた。
棚に並んだ背表紙のタイトルを眺めながら歩いていて、目にとまったが一度は通り過ぎ、でもやっぱり気になって戻って手にした本だ。
台風の悪天候で仕事が休みになったので、ほとんど一気に読みきった。
これは長男を失ったある家族の物語だ。
読んでる途中で、サリンジャーの『フラニーとゾーイー』や『ナイン・ストーリーズ』に登場する、グラース家の物語を思い出した。
長男シーモア・グラースも一家の前から姿を消す。
山田詠美さんが、長男・澄生でシーモアをなぞったのかどうかは知らないけど、サリンジャーを再読してみたくなったな。
山田詠美さんの他の作品も読んでみよう。