夢をあきらめずに

沖縄暮らしの記録

『非戦・対話・NGO 国境を越え、世代を受け継ぐ 私たちの歩み』より抜粋 その5

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第5話 宇井志緒利『何かが起きてからではなく』より

 

 

私は、ジャストピース(Justpeace)という言葉を、フィリピン・ミンダナオ島で平和づくりに取り組む人たちから教えられた。これは、平和(Peace)と公正(Justice)は切り離せないもの、「公正を伴わない平和は平和ではない」という意味をこめた造語である。つまり、「他者を犠牲にして自分のニーズを満たさない」ということ。これは足元のことからグローバルレベルまで、私が「平和」を考える時の金言である。この言葉は常に、私に「他者」への意識を喚起させてくれる。

この「他者」とは誰だろう?私たちの「平和な暮らし」は、どんな他者とのつながりで成り立っているのだろうか。誰かを犠牲にしていないだろうか。自分が犠牲になっていないだろうか。日本の中の誰かを、他国の誰かを、犠牲にしていないだろうか。知らないうちに、その「犠牲のしくみ」の中に取り込まれてはいないだろうか。「平和な暮らしを守る」と言っている日本の政治、そのエネルギー政策、貿易産業政策、「安全保障」政策、国際協力政策は、ジャストピースに叶ったものと言えるだろうか。「まあ仕方ないか」と追認することが、不公正を生み出し、他者を苦しめ、あらゆる暴力の温床をつくり出す原因を招き寄せてはいないか。もしそうなら、私たちはジャストピースを生きているとは言えないだろう。

見えにくい他者、見えない他者の存在をいかに意識し、想像力を身につけていくかが、平和づくりの鍵となる。

 

 

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『非戦・対話・NGO 国境を越え、世代を受け継ぐ 私たちの歩み』より抜粋 その4

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コラム9 渡部朋子 『韓国人原爆犠牲者慰霊碑が問いかけるもの』

 

 

かれらがあの日、広島にいたことは、紛れもなく日本の戦争と植民地政策の結果であるにもかかわらず、今日そのことは、ヒロシマを語る時にそぎ落とされてしまっている。原爆によって亡くなった朝鮮半島の人々は、現在の北朝鮮による核・弾道ミサイル実験をどのように思っているだろうか。広島の地で、原爆に焼かれ、あるいは、生き延びても塗炭の苦しみの中で生きて、最期を迎えなければならなかった人々にとって、その「死の意味」とは何なのであろうか。北朝鮮の人々にとって、自分たちが「対等」に扱われるための「核」であるならば、「核」を「非核」とする作業は、対等な関係構築を前提とした粘り強い信頼醸成の努力が必要なのではないか。私は長い間、私たちが朝鮮半島の問題にきちんと向き合うことを避けてきた結果が、北朝鮮の「核保有」という現象をつくり上げてしまったように感じている。私たちは北朝鮮に生きる市井の人々を想像できてはいない。

 

 

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『非戦・対話・NGO 国境を越え、世代を受け継ぐ 私たちの歩み』より抜粋 その3

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第3話  満田夏花『原発事故被害と米軍基地問題』より

 

 

「基地」「原発」ーー巨大な力が沖縄の人たちを、そして福島の被害者たちを踏みつけにし、かれらの声を聴かず、勝手に権力が「国益」と定義したもの、その実、国益でもなんでもないものを優先する構造は同じだった。基地や原発が沖縄や福島に押しつけられ、それによって(偽りの)安全保障だったり電力だったりで受益している「本土」とか「東京」とかの存在、すなわち被害と受益の明らかな乖離も共通だった。

それに憤り、何かしたいという人の思いも共通したものがあった。

 

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心穏やかに

台風8号が来ている。

最初の沖縄本島直撃する予想からはかなり南にそれたが、今まだ強風が吹いている。

昨日から仕事は休み、無論海にでることもできず、辺野古の護岸はどうなったろうかと思いながら、家で待機している。

人間は勝手なもので、日照りが続けば雨が降って欲しいと言い、台風がどっちへ進んだと言っては一喜一憂する。

本土では大雨が深刻な被害をもたらしている。

いつどこに大きな地震がきたっておかしくはない。

どうあがいても大自然の力に人間はかなわない。

自然に寄り添って、自然に委ね、自然の恵みをいただきながら生きていくしかない。

どれだけ科学技術が進歩しようとも、自然を力でおさえつけるような不遜な生き方をすれば、必ず先で破綻する。

人も自然の摂理の中に組み込まれている存在であることを忘れてはならない。

 

 

先日は台風で稲が倒れる前にと、急遽前倒しとなった知人の田んぼの稲刈りを手伝いに行ってきた。

短い時間だったが、裸足で泥を踏んで体を動かすことに安らぎを感じた。

僕は農業の経験はほとんど無いが、土にまみれているとなんとなく懐かしさがわいてくる。

子どもの頃に夢中になって泥だんごを作って遊んだ感覚が蘇ってくるのかもしれない。

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家で本を読むのにも飽きたので、もらってきた端材を使って以前から暇を見つけてやってた、ベランダ用の踏み台作りを終わらせた。

隙間だらけで雑な仕上がりだが、まぁ踏み台だからいいだろう。

ものを作るのは楽しい。

またそのうち何か作ってみよう。

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『非戦・対話・NGO 国境を越え、世代を受け継ぐ 私たちの歩み』より抜粋 その2

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第2話 野川 未央 『「非戦」という生き方』より

 

 

ある問題に一度気づいたら、自分がキャッチできる情報や思いを同じくする仲間への共感は、雪だるま式に大きくなっていく。しかしそれは、周りの人にとっては「当たり前」ではないかもしれない。だからこそ、自分にとっての「初めて」を思い出して、周りの誰かのためのきっかけを一つでも多くつくれるように、知恵をしぼって動いていきたい。そのためには、一方的な演説ではなく対話の場をつくること、一人ひとりが自分の感性を大切にして自分の言葉で表現すること、アートやユーモアを忘れないこと。待ったなしの状況ではあるけれど、種を蒔かないことには芽は出ないし、花も咲かないのだから。

「間違ったこと口にしてしまったらどうしよう」「自分の意見が否定されたら嫌だな」などと考えなくても大丈夫。間違いに気づいた時には、素直にそれを認めて正せばいい。異なる意見の人がいるのが当たり前(みんな同じ意見だなんて逆に恐ろしい)。一人ひとりが自分の想いを、自分の言葉で伝えることで、誰かの胸にその言葉が響いて、何かが動き出すかもしれない。誰もがそんな力を持っているはずだ。

 

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