不断の努力
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辺野古イノーでの埋め立て土砂投入が始まった。
そこはカヌーでの抗議監視活動の合間に、岩場で小さな魚、蟹、サンゴなど様々な海の生物の観察を楽しんだり、機敏に動く白い渡り鳥アジサシの美しさに目を奪われたりした、多様な命の生きるまさにその場所だった。
護岸の壁に阻まれて、カヌーからは実際に土砂投入の様子を目にすることはできないだろうと予測していたが、それは公開処刑のように我々にしっかり見える場所で始まった。
長い抵抗の中で初の土砂投入。
辺野古の新基地建設が新しい段階へと進んでしまったことは間違いない。
野球場がすっぽり収まるほどの面積となる今回の埋め立て区域には、10トンダンプ22万台の土砂が投入されるとのことだ。
二日続けて行われた土砂投入は、大きなショックを多くの人に与えたことだろう。
しかし、国の暴挙と言えるこの出来事も、一週間、十日間、一ヶ月と続き日常化してしまえば、やがて人はそのことに慣れてしまう。
埋め立てを急がせた者たちは、人々が “慣れる”ことを心待ちにいるのだ。
激しい怒りや悲しみに塗り固められた日常をずっと生き続けることはできないが、慣れることは諦めにつながる。
慣れることは恐ろしい。
僕は岩場に生きていた小さな命のことをいつまでも覚えていたい。
“慣れ” の波に飲み込まれないように、心の奥にロウソクの炎のような熱を保つために。
ネットでは、「沖縄は屈しない」「沖縄は諦めない」といった言葉が目につく。
踏みにじられ血を流す者について、他者が「屈しない」などと口にする言葉が、血を流す者の心にどれだけ無慈悲に響くのか。
そうやって沖縄に託して、応援スタンドで旗を振ってる間に、海はどんどん殺されて、未来は闇に閉ざされていく。
「沖縄は諦めない」のではなく、命や人としての尊厳といったかけがえのないものが露骨に蹂躙されている沖縄は、諦めるという選択肢を選べないのだ。
沖縄は声の限り痛みを訴えている、もうずっと途切れることなく。
沖縄をどうするかではなく、本土はどうするのかが問われ続けている。
平穏な日々も自由も、享受するだけでは消え去ってしまう。
手にした平穏や自由の一部を削って、薪のように焚べてたえず燃やしてやらなければ、その火は消えてしまうのだ。
誰かに託すのではなく、一人ひとりが自分の時間や自由を少しずつ削って、社会全体としてそれらを維持する行動のために使えば、一人の負担はとても軽くなるはずだ。
軍国化を推し進め、原発を動かし、一般市民から搾取し、弱者を切り捨て、一握りの富める者の利益のために政治を動かす、今の日本は露骨にそういうことをする国になってしまった。
今求められているのは憲法に書かれた「不断の努力」だ。
変えなければならないのは他者ではなく、私たち自身なのだ。