踏み続ける足
24日に行われる県民投票が告示され、期日前投票も始まった。
それに合わせて、県外でも県民投票の成功を後押しする街宣や、模擬投票などのキャンペーンが各地で行われているようだ。
本土でのこれらの取り組みが善意であることは疑いがない。
それを承知しながらも、僕はどうしても違和感を感じずにはいられない。
沖縄は本土から過重な基地負担を強いられ、「痛み」に苦しみ続けてきた。
そして今辺野古に新基地がつくられ、さらなる「痛み」が加わることについて、県民に改めて賛否を問うて「反対」の意思を表し、その声を県知事に託す県民投票という表現方法をウチナーンチュの皆さんは選んだ。
これに呼応するように、本土では沖縄の県民投票への連帯をうたって、一緒に「反対」の意思を示そうと呼びかけられているのだが、辺野古新基地建設について、ウチナーンチュの皆さんが「反対」の意思を示すということと、本土のヤマトンチューの皆さんが「反対」の意思を示すということは、本質的に全く別物であると、どれだけ深く意識されているだろうか。
24日にウチナーンチュの皆さんは県民投票で「反対」の民意をしっかりと示し、デニー知事に託してその声を日米両政府に突きつけるに違いない。
しかし、それを応援し、一緒に「反対」の意思を示したヤマトンチューの皆さんは、「沖縄の民意がしっかりと示されて良かったね」で終わってはいけないのだ。
何故なら、僕も含むヤマトンチューの足は、沖縄と一緒になって「痛み」を訴えたその瞬間も今も、沖縄を踏みつけ続けているのだから。
まるで相手の足を踏みながら、もっとしっかり「痛い」と言わせようとしているような、この奇妙さについてはほぼ語られていない。
私たちヤマトンチューは県民投票の結果を誰かに託すのではなく、沖縄を踏みつけている自分たちの足を、ではどうやって自分たちでどかすのかということを必死になって模索しなければならない。
そうでなければ、模擬投票の「反対」は薄っぺらなものとなり、真の沖縄への「連帯」は成し遂げられない。
以上に書いたようなことは、本土の盛り上げムードに水をさすことになるかもしれない。
本土で連帯の行動に奔走している人たちから反感を買うかもしれない。
でも、本土で生まれ育ち、約3年間を沖縄で暮らしている僕は、今どうしてもこれを書いておきたいと思った。
ここに書いたような視点について、ウチナーンチュの皆さんの口から語られることはほとんど無いと思うから。