未来は手の中に
作業員のコロナ感染で中断されて以来、約2ヶ月のブランクを経て、今日辺野古の埋め立て作業が再開された。
怪しげな企業が受注したアベノマスクが、小さ過ぎて、異物が混入し不衛生で、市販マスクが再び流通しだしてもう遅すぎ、どんなに役立たずで不要だとみんなが思っても、「何度も洗って使える布マスクはとても有効」だという政府が作ったでまかせのフィクションを人々が行動し押し返せなければポストに届けられる。
同じように、軟弱地盤や活断層の上に埋め立ててつくったとしても、完成後に地盤沈下で使いものにならない米軍基地も、「普天間基地の危険性除去のため唯一の選択肢」という政府の作ったでまかせのフィクションを世論が押し返せなければ、粛々と進められる。
しかし、この2ヶ月、工事作業はただただ足踏みしていただけだが、コロナ対応の不手際や検察庁法改悪など国会では様々な政府のデタラメが暴かれ、自粛期間の家籠りで多くの人がその政府の不誠実、欺瞞を目にし、声をあげ始めている。人々の意識が2ヶ月前とくらべて一歩も二歩も前に進んだことを実感している。
もう流れは変わりつつある。でまかせのフィクションを押し返すチャンスがきている。ものにできるかどうかは、真実が見えている私たちの行動次第だ。
ハートに火をつけて
辺野古埋め立て作業の再開が迫ると報道されているなか、ブランクのあいている海上行動も再始動への肩慣らしとしてカヌー練習を行なった。
2ヶ月近く作業が行われていない辺野古には渡り鳥のアジサシが少ないながらも戻ってきていた。
松田ぬ浜から辺野古崎までの行き帰り、カヌーを漕いで何匹ものウミガメを見かけた。水中に目を凝らすと、彼らの餌場である藻場が見える。
大浦湾では2月と3月にはジュゴンの鳴き声と思われる音が記録されていたそうだ。工事が止まって運搬船の出入りが無くなって静けさを取り戻した大浦湾には、今日もジュゴンが戻ってきていたのかもしれない。
この平穏な海を少しでも長く保ちたい。
そう思っていると、キャンプ・シュワブ上空に轟音をあげながら、儚い願いを嘲笑うようにオスプレイが飛来した。
長らく羽地内海で待機を続けてきたランプウェイ台船、屋部3号と5号が北へと移動を始めた。
夕方6時過ぎには古宇利島のハートロックのあるティーヌ浜の前に停泊していた。
北回りのルートで、明日にも大浦湾に入って、運搬船で運ばれてきた埋め立て土砂を受ける作業にあたるのだろう。
政府による辺野古基地建設の暴挙を沖縄の現場だけで止めることはできない。
利権にまみれ、コロナ感染防止に役立たずなアベノマスクが配られるのを止めるには、家のポストの前で阻止するのでは遅過ぎるのと同じだ。
沖縄が力を尽くして作業を遅らせている間に、全国の声を集めて政権に圧力をかけ、政治的に断念させるしか実質的に止めることはできない。
利権をむさぼり続ける政権の腐敗が、コロナ禍で次々と露呈している。その最も露骨に現れている現場のひとつが辺野古新基地建設なのだ。
「沖縄を応援しています」という善意の言葉が、どれだけ的外れかということに、そろそろ誰もが気づかねばならない。
ナオミ・クライン著『これがすべてを変える 資本主義vs.気候変動』
ナオミ・クライン著『これがすべてを変える 資本主義vs.気候変動』
2014年に書かれた、上下巻合わせて600ページを超えるボリュームの書。
3月末に図書館で借りて読み始め、ようやく読み終えた。
新型ウイルス感染拡大を防止するため、図書館が長期閉館となり、借りっぱなしでよかったのに加えて、自宅で過ごす時間がたっぷりあったこともラッキーだった。気になる箇所はノートに写したり、ネットで検索して理解を深めたりしながらじっくりと読み進むことができた。
化石燃料を燃やすことで排出される温室効果ガスによる気候変動と、石炭や石油、シェールガスといった地下資源の採掘、精製、輸送に伴う凄まじい環境破壊、それらに抗う世界中の人々とその運動を潰すために働く強大な力などについて、ナオミ・クラインは様々な切り口で重ねた取材を基に、冷徹な思慮と深い情熱をもって描いた。
産業革命以来、人類の化石燃料依存が溜め込んだ環境への負債は、既に異常気象というかたちで様々な兆候を見せている。蓄積による悪影響の連鎖が急激に起こり不可逆的な破滅に陥るティッピングポイントまでの残された時間はわずか10年足らずだと言われる危機的な状況であるにもかかわらず、温室効果ガス削減に世界規模の有効な歯止めがかからないのは、世界に蔓延している経済優先主義、自然環境からの乖離と自然軽視、搾取と犠牲によって成り立つ社会構造といった、現代の人類の生き方そのものの破綻によるものだと指摘している。
つまりは、今まで通りの生活を続けて破滅へ至るのか、それを回避するための新しい価値観に基づくライフスタイルへと切り替えるのか、わたしたち一人ひとりが選択を迫られているのだ。
新型ウイルスのパンデミックによって、はからずも経済活動の抑制が世界的規模で余儀なくされ、温室効果ガスの排出が一時的に減少することで今までに無かった環境改善の兆しがほんの少し見え始めている。
世界中を飛び回り、終わりのない経済成長を追い求め、飽くなき欲望によって地球を消費し尽くす社会のあり方から、少し離れて客観視する時間を多くの人が手にする機会ともなった。
この疫病蔓延は大きな災厄ではあるが、目の前に迫る破滅に向き合おうとしない人類に与えられた最後のチャンスでもある。
巻末に書かれた言葉を読んだ時に、この時期にこの本を手にしたことは、決して偶然ではないという気がした。
「こう考えてみると、次に危機が起きたとき、再び街頭や広場を人々が埋めつくし、みながそれを驚きの目で見ることになるのは間違いない。真の問題は、進歩派がそうした瞬間から何を生み出せるか、その機会をどれだけの力と確信をもって捉えることができるかということだ。というのも、突如として不可能が可能に変わるこうした瞬間は、耐えがたいほど稀にしかない、貴重なものだからだ。だからそこから多くを生み出さなければならない。次にそういう瞬間がやってきたとき、ただ世界の現状を非難し、束の間の限られた解放空間を築くだけに費やすわけにはいかない。すべての人間が安全に生きられる世界を現実につくり出すための触媒としなくてはならない。それ以下で事足れりとするには、事はあまりにも重大であり、時間はあまりにも少ない。」
人類はこの地球という生命体を脅かすウイルスなのか、それとも自らを律し、あらゆる生命を有する自然の摂理のなかで謙虚に共生の道を歩む大自然の一部なのか、わたしたちが何者なのかが間もなく暴かれる。
結末はわたしたち次第だ。